差別の対象になった仁侠界

 そうした警察機関の音頭で、皆さんも知っての通り平成3年より暴対法(暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律)が施行され、徐々に厳しさを増して現在に至る。また、平成23年10月1日を以て日本全国に県条例としてなる暴排条例(暴力団排除条例)が施行され、仁侠界への完全なる差別法が適法化されたのだ。

「法の下の平等」とされる国民の権利は、ここにハッキリと脅かされ、憲法は謳い文句に過ぎないといった異常な状態が続いている。現在、世情を賑やかしているみずほ銀行の融資問題にしても、どうして、あれほど騒がなければならないのか…疑問符は尽きない。

もとより、耕作民族である我々日本人の思考という部分からは、長い歴史に於いて格式というものを重んじてきた。これは土地柄という部分からきているのであり、つまりは土地を守るために団結し、誰かが指揮棒を振り、それに従う者がおり、その役割分担が整備され、土地を守るための武士団、米をつく眼作業員としての成り行きであったといえる。これは偏に、米を作り生活するための手段でありました。米を作るために土地が最も必要とされ、石高という利害の成立から、それを守る手段が出来上がったという事なのだ。

そうした成り立ちからきた格式であるから、やがて士農工商の身分制度が確立され、そうした格式による差別が当然の構想として植えつけられ、視野を狭めれば、村という小さな集団による村八分や、力の有無による男尊女卑という差別の思考が生まれたのである。

「同じ日本人に生まれながら、何故にこのような身分制度の差別や、しきたりによる理不尽な扱いが在るのか…」という倫理に照らした矛盾や、理不尽な実態に反発し、幕末の英雄坂本龍馬を初め、多くの志士と呼ばれた者達が、明治維新へと志を馳せ肉体言語を以てそれを勝ち取り、近代国家へと日本が歩みを始めて行ったという史実がある。現在にしては、先の大戦で多くの犠牲を払いながらも終焉を迎え、国民性の不屈の精神から高度成長を経て、先進国でも上位を占める発展を果たしてきた。その要因の一つとして、旧・大日本国憲法から新・日本国憲法に替り、培われた日本の国体は格式と共に解体され、差別という一つの理念が違憲となり、同時に差別を忌み嫌う風潮が高まった事から、多面に対し国がその制度の抜本的改革に着手してきたという歴史がある。

政府は、先の大戦の傷跡を『国が非』とし賠償をするなどして、先の大戦に至った経緯を湾曲してまで日本の誤りを肯定し、国民の血税を放出してきた。また、長い歴史の中で差別を受けてきたとする、国の陰の部分への援助制度を推進し、同和問題などの解決をも試みてきた。

このように、差別を蔑視し敵視してきた歴史観があるのにもかかわらず、今まさに国を挙げて仁侠界に生きる者達と、その周辺者とされる者達への大変な差別が、当然の如く行われているという悲しい現実があるのだ。これはまさしく村八分の現代版なのであり、これが許されるのであれば、次は我々庶民の誰かが的にされ、同じ道を歩む事になるという事は、火を見るより明らかであり、そうした懸念が払拭できない。

 現在の情報によれば、車ディーラーは車の販売を禁じ、銀行は家族ですら銀行通帳が作れず、銀行サイドから、一方的に以前に所有した通帳も全て解約されるという扱いを受けている。保険関係なども、車の任意保険を初めとし、火災保険などの住宅保険の契約はもちろん拒否され、以前からの契約も全て解約へと移行されており、宅配便などの受付も一切拒否。前々から長い付き合いをして来たダスキンや、花屋といった業者にも、一切取引や付き合いを断られ、酷いものは食堂の注文さえも「拒否するように…」との警察の指導があったという。つまりは社会全般的に警察の指導を以て、仁侠界に生きる者とその周辺者とされる者達と、これまでの付き合いのあった者との一切の関係を、遮断するという作業を強硬に行っているのであり、仁侠界側の者達は、そろって皆悲惨な状態を強いられている。

我々がこの立場で会ったらどうだろう…と、考えさせられる。通帳が無いのであれば、この近代社会不自由この上ない事は言うに及ばない。保険が無いのであれば、車の運転も危ぶまれる。誰とも付き合えないから仕事をするにもままならない。これでは「死ね」と言っているようなものであり、暴力団と呼ばれる仁侠界に生きる者までか、その周辺者にまで制裁をするというのだから、健全な夫婦生活など到底営めず、妻子の事を考えて離婚する…と、いう意向になるのは、当然の成り行きなのである。

法治国家であるのだから、刑事罰で厳しく対応するだけでも、十分に本人らの言動の矯正は成るものであり、周囲を巻き込んでまでの差別の方針を推進するとは、我々にとっても脅威であるという他に何もないのである。

こんな酷い差別が、同胞として、人間として、けして許されるものではない。日本国に共に生まれた同胞でありながら、余りに無情な仕打ちであるとしか言いようが無く、いわば人間としてあるまじき行為である。

このまま、こうした国を挙げての差別を許したならば、明日の我々も確実にそうした恣意的な事情でその差別を受ける枠組みに嵌められ、同じ思いを強いられる事は、火を見るより明らかなのだ。

作家の宮崎学氏のいう通り、警察が、これまでの長い歴史に於いて占有してきた、仁侠界の『縄張り守』の利権を奪う為の一つの手段なのか…。とさえ思えてしまう。

筆者には、どうしてそこまで仁侠界を差別し、国民の意志もないままに、国家権力の背景を以て従わせようとするのかその意図が見えないのだ。

 仁侠界関係者はいう。

「我々ヤクザが悪だと言われるのは、元々不良と呼ばれ続けて生きてきたのだからそれはいい。しかし、女房や子供は違う。まして友達も知り合いも、付き合いのある者の全てが悪だとするのは、かなり横暴な話じゃないか…」

と、涙を浮かべて語った。

また、他の関係者は、

「我々は反社会なんかじゃない。我々の先輩達も歴史が証明している通り、国寄りの考えだったし、国の為に体を張って来た。我々だってそうだ。国に恨まれるような事をした覚えはない。」と、語気を荒げた。

筆者の勝手な言い分ではあるが、仁侠界にも色々な人間が存在し、大なり小なり悪もいるが全部悪いかといえばそれは違うと想う。反ってそういう者達に限って、善悪の考えがハッキリしており、筋道を通す人間らしさが漂っていると想うのだ。

福岡県出身の政治家・中野正剛氏は、大正10年に「任侠と卑劣」と題する講演をした席で、

『弱者を虐げる強者に阿る心ほど、人間として卑劣な事はない。強者を挫き弱者を扶くるを任侠という。人間の美徳である。国運起こらんとする時は任侠の気風が興り、国運傾く時は人心衰えて卑劣の行動が行われる。

と、述べたという。

また、中国の司馬遷が描いたとされる歴史書の『史記』にある遊侠列伝の一文に、

『遊侠は、その行為が正義の道に悖る事はあるが、自分の発言は必ず守り、その行いは果断で、一度約束したことは、己の生命の危険など顧みずに果たそうとする。しかも、その才能をほこらず、その特にほこる事を恥としているから、称讃すべき人物が多い。世間では、侠客というものを理解せず、朱家()や郭解()らを、暴豪の徒と同じように扱うから、情けない。秦より以前の民間の侠客は埋没してしまっている。誠に残念なことである。』

と、あるとおり、仁侠界に生きる者の性質を良く理解しているといえる。仁侠界に生きる者達は、元より庶民の前衛であると、日本の歴史の至る処で証明されているのだ。

この差別法に対しては、2012年の暴対法改正案当時から、多くの各界人から反対の声が寄せられている。ついては、2012年1月24日に「暴力団排除条例」の廃止を求め、「暴対法改定」に反対する表現者の共同声明として、田原総一郎・宮崎学ら20名の表現者が反対声明を出しているので紹介しておく。

『           【 声明文 】

二○一一年・平成二三年十月一日に東京都と沖縄県が暴力団排除条例(「暴排条例」)を施行した。その結果、全都道府県で暴排条例が施行されることになった。こうした事態にいたるまで、私たち表現者が反対の意思表明ができなかったことを深く反省する。私たち表現者も、安全な社会を否定するものでは決してない。しかし、その「安全な社会」の実現を謳いながら、「暴排条例」は、権力者が国民のあいだに線引きをおこない、特定の人びとを社会から排除しようとするものである。これは、すべての人びとがもつ法の下で平等に生きていく権利を著しく脅かすものである。暴対法は、ヤクザにしかなれない人間たちが社会にいることをまったく知ろうとしない警察庁のキャリア官僚たちにより作られた。さらに危険なことは、暴力団排除を徹底するために、表現の自由が脅かされることだろう。

条例施行以後、警察による恣意的な運用により、ヤクザをテーマにした書籍、映画などを閉め出す動きをはじめ、各地各方面で表現の自由が犯される事態が生まれている。こうしたなかで、金融、建設、港湾、出版、映画などさまざまな業界で、「反社会的勢力の排除」「暴力団排除」をかかげた自主規制の動きが浸透しつつある。萎縮がさらなる萎縮を呼び起こす危険が現実のものになっている。

いまからでも遅くない。暴排条例は廃止されるべきである。

こうした流れのなかで、新年早々から、一部の勢力が暴対法のさらなる改悪を進めようとしていることに、わたしたちは注意を向けなければならない。かねて福岡県知事らは、法務省に対して暴対法の改定を求めて要請を続け、これを受けて警察庁は暴対法に関する有識者会議を開催して準備を始めている。そこでは、現行法のさまざまな要件の緩和、規制範囲の拡大が検討されている。昨年暮れには、福岡県知事らが暴力団に対する通信傍受の規制緩和やおとり捜査・司法取引の積極的導入を法務大臣に直接要請したことが報じられた。暴対法がこうした方向で改悪されるならば、表現の自由、報道の自由、通信の自由、結社の自由などの国民の基本的権利はさらなる危機に立つことになるだろう。ヤクザの存在は、その国の文明度を示すメルクマールでもある。

たとえば北朝鮮にはヤクザはいないと言われている。戦前の社会主義者の規制が全国民への弾圧に拡大したように、暴対法は「暴力団」の規制から国民すべてを規制する法律として運用されることになるだろう。これは、わたしたちに「治安維持法」の再来を含めた自由抑圧国家の成立を想起させる。

わたしたちはこうした動きに強く警戒し、強く反対する。わたしたち表現者は、自由な表現ができてこそ表現者として存在できるのであり、表現者の存在理由を否定し、「自由の死」を意味する暴排条例の廃止を求め、暴対法の更なる改悪に反対する。』                                         

 

声明文の二○人の賛同者となる学者や評論家は以下の通り。

【賛同者】二○一二年三月二八日

 

(ジャーナリスト)青木理・猪野健治・魚住昭・大谷昭宏・角岡伸彦・斎藤貴男・齋藤三雄・須田慎一郎・田原総一朗・山平重樹

(経済評論家)植草一秀

(ミュージシャン)喜納昌吉

(元『噂の眞相』編集長・発行人)岡留安則

(評論家)小沢遼子・高野孟・西部邁・三上治

(哲学者)萱野稔人

(作家)佐藤優・宮崎学

(日本BE研究所所長)行徳哲男

(有明教育芸術短期大学学長、評論家)栗本慎一郎

週刊金曜日編集委員)佐高信

(東京管理職ユニオン執行委員長)設楽清嗣

(一水会顧問)鈴木邦男

(映画監督)高橋伴明

(詩人、作家)辻井喬

(ルポライター)日名子暁

(ライブハウスロフトオーナー)平野悠

(部落解放同盟)みなみあめん坊

(『月刊日本』主幹)南丘喜八郎

(社会学者・首都大学東京教授)宮台真司

(映画監督)若松孝二

 

 この他に、2012年3月18日に「暴力団排除条例」の廃止を求め、暴力団対策法の改悪に反対する意思を、141名の弁護士が表明している。

 全ての賛同者の意見を記したい処だが、紙面に限りがあるので、敢えて田原総一郎と宮崎学の二名に絞りコメントを紹介する。

 

ジャーナリスト 田原総一朗 氏

「民放連が「暴排条例」に基づき、議論もなく警察当局に協力する姿勢は問題があり、本来の役割を逸脱している、マスコミ人として危機である。島田紳助は1つも法律違反をしていない。なのに、どの芸能人が条例違反だとか、警察に寄り添った報道ばかり。マスコミが警察の全面的な味方になってしまっていいのか。だから、警察や検察が行き過ぎた正義感をひけらかしている

正義なら何をやってもいいという『過剰な正義』くらい危ないものはない。こうした法律がまかり通ってしまう一因にマスコミの弱さがある。批判されないゆえ、警察や検察はいい気になり、過剰な正義に走っている」

作家 宮崎学 氏

「条例が完全施行されて以降、表現の現場で萎縮現象が起きている。自粛の意思もなくて縮んでしまっている状態は看過できない。また、全国の組員の家族も含めると20万~50万人が警察のデータベースに登録され、社会から排除される。チャップリンまで追及された『赤狩り』を思わせる息苦しい社会になる。その背景には警察官の天下りなど、官僚の利権追求がある1970年前後に、大量に確保した警察官が退職時期を迎えている。こうした警官を企業に天下りさせるために、暴力団排除の標語が利用されている。いわばコンプライアンス利権だ。暴力団を擁護するつもりはない。しかし、被害者の人権とともに加害者の防御権も考えて、バランスをとることが望ましい社会のあり方だ。息苦しい社会への転換を許してはならない。」